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神学校だより

神学校だよりは・・・

神学校の最新情報を皆様にお知らせするために年4回発行します。印刷されたものは教会で手に取り、お読みください。またオンラインでもお読みになれます。お祈りをよろしくお願いします。

神学校だより

2025年8月, Vol. 97

校長の机から

キリストが形造られるまで

校長 加治佐かじさ 清也せいや

「私の子どもたち。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」ガラテヤ人への手紙4章19節

校長の任に就いてから4か月あまりが経ちました。入学式、卒業式など多くの行事や様々な対応すべき事柄がありましたが、主の守りと導きのうちに歩ませていただいたことを主に感謝します。また諸教会の皆様のお祈りにも心から感謝いたします。そのような日々の中で、神学校の働きについてあらためて教えられたことがあります。それが冒頭の箇所です。ここでパウロは、ガラテヤの信徒たちに対して深い霊的な愛と痛みをもって語っています。ここに私は、 神学校の働きに通じるものを見る思いがします。

第一にパウロは「私の子どもたち」と呼びかけています。ガラテヤのクリスチャンたちには問題がありました。恵みの福音を急に離れて、偽りの教えに流されていました。パウロは彼らを厳しく戒め、「ああ、愚かなガラテヤ人」とさえ言いました。しかしその厳しさには愛情がありました。それが「私の子どもたち」という言葉にあらわれています。パウロは指導者と信徒という関係を超えて、親のような気持ちでガラテヤの人達を見守り、関わっていました。神学校においても、教役者と学生という基本的な関係がありつつも、我が子を愛情と厳しさをもって育てるように、関わっていくことの大切さを覚えます。

第二に、パウロは「あなたがたのうちにキリストが形造られるまで」と述べています。パウロの目的はガラテヤ人の深い霊的な成長でした。それは単に知識を与えることにとどまらず、人格的な交わりにおいて、人がキリストに似た者に造り変えられていくことを意味しています。キリストのような愛の人、献身的な人、喜びの人、柔和な人、善を愛し悪を憎む人・・・そのような人に信徒がなることこそ、パウロの目的であり、そのために一人一人に深い関心を寄せていました。神学校の働きも、学生たちが霊的に成熟し、彼らのうちにキリストが形作られることを目指したいと思います。教会の信徒についてもそうですが、献身者であればなおさらです。神学校の目的は、学生を何か自分の型にはめたり、学生に自分が考える理想を押し付けたりすることではなく、彼らがよりキリストに似た、成熟したクリスチャン指導者となることです。

第三に、そのために指導者は「産みの苦しみ」をするということです。パウロは霊的な親としてガラテヤの人達のために苦しみました。女性が子を産むときには、尋常でない激しい苦痛が伴うといいます。そのような産みの苦しみをもって、パウロはガラテヤの人達に関わりました。彼らがもう一度、恵みの福音に立ち返るように、身を削って祈り、悩み、戦っていたのでした。神学校も、主から預かった大切な学生一人一人のために、親心をもって悩み苦しむものでありたいと思います。親は子供の幸せをただ願います。子供から何かを得ようとせず、子供が正しく、楽しく、強く、優しく、何よりも神とともに歩むことを願います。そのためにどうするかを考え、祈り、時に悩み苦しみます。それは子供のことを、自分事として受け止めているからです。そのように神学生一人一人を祈りに覚え、育んでいければと思います。

あらためてこのみことばに、神学校の働きに対する大切な姿勢を教えられる気がいたします。教える目的は、単に知識の伝達ではなく、彼らの中に「キリストが形づくられる」ことです。そのために、神学校は親のような愛と忍耐をもって彼らの魂に関わることが大切です。しかしながらこのような働きは、とても人の力でできることではありません。

「私たちはこのキリストを宣べ伝え、あらゆる知恵をもって、すべての人を諭し、すべての人を教えています。すべての人を、キリストにあって成熟した者として立たせるためです。このために、私は自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。」(コロサイ人への手紙1章28~29節)
パウロは信徒をキリストにあって成熟した人とならせるために、労苦しながら奮闘していました。しかしそれは自分の力によるのではなく、「自分のうちに力強く働くキリストの力」によるものでした。次の世代を担っていく指導者の成熟のためになす神学校の働きも、人間の力ですることはできません。「自分のうちに力強く働くキリストの力」をいただいて、労苦し奮闘することができるのです。キリストの力を内にいただいて、献身者を育てるというこの貴い働きのため、労苦し奮闘させていただければと願います。

学生一人一人のうちにキリストが形作られるために、神学校が続けて忠実に務めを果たすことができますように、そのために内に力強く働くキリストの力が豊かに与えられますように、お祈りいただければ幸いです。

卒業生の証

4年の学びを感謝して

卒業生 池側いけがわ 真紀

4年課程・茨城BBC

長いようで短く、短いようで長い神学校生活も、主の恵みと導きによって守られたことを、まず何よりも神に感謝いたします。

この4年間、神さまは様々なことを通して、私を砕いて練ってくださいました。それはⅠペテロ1章6-7節にあるように、火で精錬されるようなもので、苦しいこともありましたが、それを通して主は様々なことを教えてくださったように思います。先生方から受けた授業での学びもとても貴重で、キリスト者としての世界観、物事の見方について改めて考える示唆が与えられ、自分の考えがどこから来ているか、見直すようになりました。また、宣教は神がなさるものでそれに私たちは参与させて頂くという見方も新たに教えられたことでした。視野を広げるような様々な授業を与えてくださり、チャペルや日々のお交わりを通しても励まし導いてくださった先生方に心から感謝申し上げます。

私が入学した時は、コロナ禍真っ只中にあって、人数も少なく学年各一人という時期でしたが、その分濃いお交わりができたように思います。同期がなく、直接共に学んだ先輩3学年、後輩3学年で12人と少ない人数でしたが、共に学び、訓練を受け、いろいろなことで励まし合うことができました。その交わりの祝福をとても感謝しています。

またこの学びと訓練は、母教会である茨木聖書バプテスト教会の先生方や兄弟姉妹の皆様のお祈りと励ましによって支えられました。先生方はじめ兄弟姉妹に感謝いたします。また、母教会が遠い大阪にあることもあって、4年間奉仕教会が与えられたことも感謝でした。1年生の時にお世話になった熊谷バイブルバプテスト教会、2年生でお世話になった太田聖書バプテスト教会、3年生から2年間お世話になった稲毛聖書バプテスト教会、それぞれの教会の先生方また兄弟姉妹の皆様に心から感謝いたします。また、水曜日の集会には、上田聖書バプテスト教会に、4年間通わせてくださったことも感謝でした。

卒業式を終えてから1か月少し経ち、大阪の夏の酷暑に参ってしまっていますが、「学ぶために入り、仕えるために出て行く」神学校から送り出されるように卒業まで守られたので、「私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。」(2コリント4章7節)の御言葉にあるように、土の器が砕かれて、中にある福音の輝きが現れるということを覚えて、主が福音宣教のためにこの土の器を砕いて用いてくださることを信じ、神さまがどのような働き場で用いられるかわかりませんが、導かれたところで、忠実に、謙遜に、主にあって、続けて歩んでいきたいと願っています。

最後に、すべてを与えてくださって支えてくださった私たちの愛する唯一真の主なる神さまに栄光を帰して、感謝の言葉とさせていただきます。

卒論概要

東アジア、特に日本と朝鮮半島における福音宣教の歴史についての一考察

なぜ日本のクリスチャン人口は1%を超えないのか

歴史を振り返ることによって宣教の課題と祝福について検討する

卒業生 池側いけがわ 真紀

4年課程・茨城BBC

本論文は、東アジア、とくに日本と朝鮮半島における福音宣教の歴史的展開と現状を比較・考察し、今後の宣教のあり方を模索することを目的としています。著者は、修士論文で朝鮮人詩人・尹東柱の信仰と生涯を研究したことを契機に、北朝鮮宣教を含む東アジアへの関心が深まり、この研究に至りました。

第1部では、カトリックからプロテスタントへの宣教の流れを概観し、宣教師の活動と現地教会への宣教主導権の移行に焦点を当てました。朝鮮半島では宣教師が準治外法権的立場を得て長期間主導的に活動したことで、信仰の土台が深く築かれました。一方日本では、宣教師から日本人知識層への主導権移行が早く進みましたが、これは信仰の成熟というより政治的・文化的妥協の結果であり、「日本的キリスト教」の形成を促し、教会の自立や信仰の普及に課題を残しました。

第2部では、福音の受容を歴史的背景、宗教政策、国民性、社会構造の違いから分析しました。日本の天皇制や神社参拝政策に対して多くの教会が「神社非宗教論」で妥協した一方、朝鮮半島の学校や教会、美濃ミッションのような一部の日本の宣教団体は偶像崇拝を拒否する姿勢を堅持しました。また、自由主義神学が聖書の権威に与えた影響にも着目しました。「血によってではなく・・・ただ、神によって」(ヨハネ1:13)という御言葉から、信仰には国民性の違いはないものの、偶像崇拝や聖書に対する姿勢の違いが宣教の祝福に影響を与えたことを論じています。

第3部では、戦後の福音宣教の動向を検討しました。日本ではGHQの政策により一時的に宣教師活動が活発化しましたが、日本人の文化的価値観や帰属意識など複合的な要因で拡大は停滞しました。韓国では朝鮮戦争後の混乱の中で教会の成長が顕著に見られましたが、現在は自由主義神学や教会の腐敗などによって信仰の純粋性が揺らぎ、鈍化しています。また北朝鮮において厳しい迫害下でも命がけの宣教が行われていることも触れています。

本研究を通じて、宣教の過程には歴史的・文化的背景の違いがあるものの、それぞれに神は祝福と課題を与えており、宣教の実りは数や比率ではなく、神の主権と恵みによることが示される一方で、偶像崇拝や聖書の権威を否定する姿勢には祝福がないことを聖書と歴史から学びました。日本における「1%の壁」を超える鍵は、私たちが主のことばに堅く立ち、唯一真の神を礼拝し、神の宣教に参与することであり、終わりの時代にあっても、揺らぐことなく主にあって忠実に歩み、愛をもって福音を大胆に語る者として生きることが、今私たちに求められている答えであると結論づけています。

卒論発表会では、歴史の霊的解釈の客観性や史料精査や現代的課題の深掘りの必要性などの指摘を受け、歴史神学の難しさを改めて実感しました。今後も御言葉に堅く立ち、福音宣教を続けながら歴史を視る眼を養いたいと考えています。

伝道実習の報告と証し

5月20日〜25日、若葉BBCにて

多くの恵を感謝

3年 三浦 基宣もとのぶ

「ふたりはひとりにまさる。」(伝道者4:9)、「全地よ、主に向かって喜ばしき声をあげよ。」(詩編100:1)の二つの御言葉の下で「一緒に喜んで主に仕えよう」というテーマで伝道実習を受け入れて下さった事を感謝します。

また、ちょうど一年前の時は金曜日までだった事もあって「役割を果たす」事のみを気にして「一体感」のようなものは気にしなかったように思います。今回テーマ通りの経験もさせていただいた事を感謝します。

前回はスミス師とエイミー師による学びがメインでした。しかし今回は、インターンのような形式でした。そのメインイベントは日曜日午後のイースター子ども会で、そのための準備に多くの時間を割いた伝道実習となりました。

ただ私の場合、一番思い出されるのは水曜日の祈祷会でメッセージを私が取り次いだ事でした。祈祷会メッセージだからと「祈り」をテーマとしてルカ11:1-13からとしました。私の祈りに応えて原稿作成を導いた神様に感謝!そして私の母教会、奉仕教会である高槻聖書バプテスト教会のキング師と神学校校長の加治佐先生に私の原稿草案についての貴重なアドバイスをいただいた事に感謝です。そしてリハーサルの場を設けてくださり、その後に「自分の気持ちを落ちつかせるために、区切りとなる部分では2、3秒、間をおいた方がよい。」との助言を下さったスミス師に感謝です。私のメッセージが神様と若葉教会との関係をさらに近づけるものになっていれば、説教者として望外の喜びです。

イースター子ども会のようなイベントは私には苦手だなぁと思わされました。当日パワーポイント操作の係を受け持ちました。当日では歌の時に、前奏の半分終わった位でタイトルのみから歌詞へ切り替えようと思っていたらピアノ担当者が歌詞が表示されるまで黙って待つという、打ち合せ不足から来る失敗がありましたが、他は特に問題無かったと思います。私自身、今まであまり子どもの担当をしてこなかったために子どもの事がよく分かっていない部分あるなぁと思ってしまいました。この辺りは普段から子ども向け伝道に力を入れている兄姉の活躍により大盛り上がりだったので、適材適所と言えそうではありました。

その他ではスミス師が火曜夜の神学生祈祷会で「知恵」を求めるべきとメッセージをして下さった事が各会をより良いものにする為のアドバイスとなったと思います。また大人向けの日曜学校でもタラントのたとえのお話をして下さり、神のためにという思いを新たにしました。そして礼拝での渡邊兄の説教から「仕える」事に思いを馳せる時となりました。始めは長く感じても終わってみれば短かった一週間、ありがとうございました。

伝道実習の報告と証し

5月20日〜25日、若葉BBCにて

私に必要なメッセージだった

2年 安藤 のゆり

主のゆるしの中で、伝道実習をさせていただけたことに感謝します。

1年前に同じ若葉教会で実習をさせていただきました。入学して間もない私は、体力・行動力・霊性等、他者と比較し自分が劣っているように感じていました。自分を自分で低く評価してきた背景に向き合わされ、実習後も主に取り扱っていただきました。

今回は実習直前のご奉仕が立て込み、願うような十分な備えができない中で始まった実習でした。しかし、前回の熊谷BBCでの伝道実習で教えていただいた、「自分の願うようにならなくても、主の御旨が成ることを喜ぶ」ことを祈り求め、不思議な平安を覚えていました。また、神学校での1年間の学びと訓練を通して、神ご自身を知る幸いや、主は私のすべてを知っておられる上で愛し赦して下さった一方的な恵みを教えていただいてきました。同じ主がこの実習を通して私を練りきよめてくださることを思うと励ましをいただきました。

様々なご奉仕が与えられていましたが、特に日曜学校の中高生クラスでのメッセージを通して、主は私を養ってくださいました。教会学校教案誌「成長」のカリキュラムに沿い、マタイ25:14〜30の「タラントのたとえ話」から語らせていただくことになりました。祈り、思い巡らし、学びながら取り組むのですが、何をどのように語ればよいか悩まされ、明らかに苦戦していました。ご奉仕、交わり、神学校での学びと説教準備は切り離せず、主は全体を通して私を教え導いて下さっていることを知っていきました。何よりも私にこのメッセージが必要であることが示され、驚きと感動を覚えました。そして3つのことを教えていただきました。

一つ目は、しもべをよく知る主人がタラントを委ねてくださったということです。主人が預けたものは主人のものであり、主人の財産でした。側で生活し、しもべの良さも弱さも知っている主人が自分の財産を預け、しかもその使い道を指定せず委ねて下さったことは私にとって不思議でした。

二つ目は、それぞれの能力に応じて預けてくださったということです。私自身、「他者と同じか、または他者より多い」方が良いと無意識に考えてしまっていたことを示されました。自分の能力より多い場合、それを負い切れず、むしろ重荷になってしまうことに気付かされました。全知の主が与えてくださっているものであるため、最善と認めることが必要と教えられました。

三つ目は、主は忠実さを見られるということです。主人は預けたものの量がどのくらいか、増やした量はどのくらいかを評価の基準にはされませんでした。神を愛し、忠実にタラントを使うことが主の求めておられることでした。また、主人の喜びを私の喜びとしてともに喜べることが真の幸いであることを知りました。

他者と同じように主に仕えるのではなく、主が私に委ねて下さった分を感謝し、主の前に忠実に仕え続ける歩みを求め続けていきます。

オープンキャンパスの証し

与えられた経験を感謝します

池田 裕樹 (船橋BBC)

主の尊い御名を賛美いたします。今回のオープンキャンパスに参加が許されたことを神様に感謝します。

2024年末に家庭の事情により、約35年間働いた職場を退職しました。その折りに、神様は一般社会では得難い素晴らしい体験をさせていただきました。

知識面では、組織神学、論述入門、伝道学、聖書地理、英書読書、ギリシャ語等々。様々な受講が許されました。実生活では、早天祈祷会、チャペル、合唱、お食事、お風呂まで先生方や神学生、他教会の参加者と寮生活を短期間ですが共に過ごして楽しい交わりの時でした。

教えられた聖書の言葉は、私たちは神とともに働く者として、あなたがたに勧めます。神の恵みを無駄に受けないようにしてください。神は言われます。「恵の時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。」(2コリント人への手紙6:1~2)

昨今のニュースの世界情勢は、戦争、紛争、地震、災害等目まぐるしく変化していますが、神様からの生命(いのち)を与えられている大切さを考えさせられました。

神様の恵みを無駄に受けないようにとみことばの通り、一コマ単位の授業、休憩時間のカフェ、雑談までも新鮮な気持ちで恵みを感じました。

今までの信仰生活を振り返りつつ、最初の原点に戻りたいと意識した授業の中では、テーマは「教会を正しく理解している聖徒」を次の3つに分けた内容が、①自分がキリストのからだの一部だと分かっている聖徒②通っている教会が自分の教会だと思えている聖徒③教会の集まりには全て参加したいと願って行動する聖徒でした。

イエス様を信じて、バプテスマを受けて、教会のメンバーシップになった聖徒を神様はどのように歩んでほしいのかと再確認の時であり、現在、通っている教会が自分の教会であり、自分の教会を愛し、大切にする。一つ一つの集まりにもできる限り参加して、キリストのからだの一部としての役割を認識するという内容でした。

今回の体験を与えてくださった神様に感謝すると共に、多くの時間を提供いただいた神学校の先生や事務局、派遣してくださったJBBF諸教会、神学校の運営の為に仕えてくださった神学生の兄弟姉妹の為に、引き続きお祈りをささげていきたいと思いました。

ありがとうございました。

「JBBC同窓生の声」募集!

編集者 三谷 浩司

「神学校だより」に同窓生の方の証を連載したいと思っております。在学中の思い出、卒業(修了)後の歩み、近況と祈りの課題、在校生や入学を祈っている献身者へのアドバイスなど、自由な内容で寄稿してください。常時受付いたしますが、担当者から直接依頼させていただく場合もございます。
字数は1200字以内、写真も添えていただけると大変感謝です。Eメールの場合は三谷宛のメアド(godislove1122mitani@gmail.com)にお願いします。郵送の場合は神学校宛にて「神学校だより原稿在中」と明記してください。多くの方の寄稿を期待いたします。よろしくお願いいたします。

編集後記

編集者 上田 平安

『神学校だより』の読者のひとりから、編集者のひとりになりました。「編集後記」というものを生まれてはじめて書くにあたり、その目的と意味を調べました。「編集後記」には、本号と次号、刊行物と読者をつなぐという目的があるようです。神学校の使命が次世代へと引き継がれている中で、本号も、読者と神学校をつなぐ一つの媒体となっていきますように!

行事予定

9月2日・授業開始

9月30日〜10月3日・ オープンキャンパス(第1週目)

10月7日〜10日・オープンキャンパス(第2週目)

10月13日〜17日・伝道実習

11月4日〜5日・秋季講座

11月18日・第1入学考査

12月16日〜1月9日・冬季休暇

過去の神学校だより

2025年5月号、Vol. 96

校長の机から

健全な教えを守り伝えたい

校長 加治佐かじさ 清也せいや

この4月から神学校校長の任を担うこととなりました。よろしくお願いいたします。これまでの経緯と今の思いを記したいと思います。

昨年の7月、校長推薦委員会よりお電話がありました。アンケートの結果、推薦候補の一人となったとのことでした。驚きで、声が出ませんでした。私の名前が挙がることを、全く想定していませんでした。お話を伺いながら、校長になるなど全く考えられないと思いました。

しかしながら、もう一つの思いが心から離れませんでした。神様のみこころなら拒むことはできない、という思いでした。そういう経験がこれまでもありました。献身の時には、就職が決まった直後から、ローマ書10:14のみことば「宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか」が日夜心に迫りました。モーセのように、いろいろな理由を挙げて神様に断りました。私は口下手です、私よりもあの兄弟のほうがお勧めです、と神様に何度も申し上げました。しかし主のみこころに抗うことはできず、最後は白旗をあげるように、みこころを受け入れました。

「自分の思いとは違うところに神様のみこころがある。」そういう経験を重ねてきましたので、今回もみこころかどうか確かめなければならないと思いました。推薦委員会から2週間、祈りの時が与えられたので、この間に私にはっきりわかるように示してください、と神様に祈りました。するとその2週間に幾人かとの交わりが与えられました。いずれも校長職を後押しするものでした。その間に起こった諸々の出来事も同様でした。それでも何度も「無理です」と神様にお断りしました。とりわけ自分には校長を担う能力はないとお伝えしました。しかしその時、神様に言われたような気がしました。「あなたは、能力がないからできないという。では能力があるから上越教会の牧師をしているのか、神学校の教師をしているのか。」と。言われてみればそうではないのです。両方とも、私にはそんな力はありません。神様の召しがあり、恵みによって支えられているからこそ、働きをさせていただいているだけなのです。そのことに気づかされました。

そうであれば、確かに私には校長職を担う能力などないけれども、神様のみこころであるなら、神様が支えてくださるし、必要な力や知恵を賜物として与えてくださる。またこの2週間、神様は確かにこれがみこころであることを示してくださった。そうであれば、これを拒むことはできない。そういう気持ちに至り、推薦委員会にお返事しました。その際「他の候補者の方も推薦を受けるのであれば、推薦委員会にお任せします」とお伝えしましが、その方はすでにご辞退されたとのことでした。このように主が状況も開かれたことを受けて、本当にみこころなのだと受け入れ、推薦を受諾しました。

昨年の今頃は、1年後にまさかこのような状況になっているとは、夢にも思っていませんでした。しかし自分で開いた道ではなく、神様が導かれた道であることは確かです。そこに私の安心はあります。このつとめを神様からいただいたものとして受け止め、神様のみこころを求めながら、責任を果たしていきたいと思います。

JBBFは聖書を本当に大切にする群れだと思います。それゆえこの群れは神様に愛されていると思います。その群れの神学校をお預かりするのは、この身には過ぎた光栄です。歴代の校長先生が育んできたよき流れを引き継ぎつつ、変えるべきは変え、健全な神学校教育を営んでいきたいと思います。神様の支えに加えて、信頼できる教師の先生方や、祈り応援してくださる仲間が与えられていることを、とても心強く感じています。皆さんとともに協力して、神学校の働きに取り組んでいきたいと思います。
最後に私が神学校で大切にしていきたいことを申し上げます。それは「健全な教え」です。第2テモテ1:13ー14「あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛のうちに、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい。自分に委ねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって守りなさい。」聖書に基づいた健全な教え、先輩方が守り通してきた健全な教理を守っていく。不健全な教えが蔓延している今の時代にあって、健全な聖書観、神観、人間観、男女観、家族観、教会観、終末観などを、教会の指導者となる献身者たちにしっかり教えることは、神学校の大切なつとめです。また健全な教理は健全な道徳倫理の土台でもあります。不健全な教理は不道徳を生みます。教理は実践と分かち難く結びついています。

ですから、様々な知識を身に着けることが大切です。パウロも「あなたがたが、あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころについての知識に満たされますように」(コロサイ1:9)と祈りました。「神のみこころ」とは、神の教え全体のことです。この知識に満たされることをパウロは祈りました。神学生が、神の教え全体の知識に満たされて遣わされるように、導いていきたいと思います。確かに知識は人を高ぶらせる危険がありますが(1コリント8:1−2)、真の知識や学びは、人を敬虔に、謙遜にするものです。「神に選ばれた人々が…敬虔にふさわしい、真理の知識を得る」(テトス1:1)ことこそ、神のみこころです。

私が住む上越は、お米の産地です。秋には金色の稲穂が風に波打つ美しい光景が広がります。たわわに実った米粒の重みで稲穂はこうべを垂れます。「実るほどこうべを垂れる稲穂かな」。聖書の知識をたわわに身につければつけるほど、人は敬虔に謙遜になり、神と人に仕えるようになるのだと思います。そしてその姿はとても美しいのです。そのような献身者を送り出す神学校でありたいと思います。

この群れに、主が多くの献身者を興してくださり、神学校で学び、遣わされ、この群れがますます祝されることを願います。今後ともお祈りをよろしくお願いいたします。

校長退任の証と感謝

不変で信頼できる神のことば

前校長 斎藤 秀文

「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ローマ11章36節)

主は私にもう一つの働きの舞台として、神学校へ18年前に遣わしました。その働きを終えるにあたり、今、私のうちにあるのは主への感謝です。この感謝は、単に神学校の働きを終え次の人へとバトンタッチできた喜びではありません。それは、神のことばだけが、不変で絶対に信頼できるとの信仰さえもが神によって与えられているという幸いを再確認した時だったからです。その幸いな奉仕の背後には、私の知らないところでの多くの先生方、諸教会の祈りと支援が献げられている、これを知らされたからです。これは私にとって大きな喜びでした。

しかしこの18年は、決してうれしい事ばかりではありませんでした。コロナ対策、学生の心身の健康問題、財政問題等々、悲しい事、悔しい事、様々ありました。そして5年間の校長職という奉仕でしたが、プレッシャーのゆえに悪夢にうなされる夜が度々ありました。しかし、今、それらすべてが、神が私に見せて下さったユニークな人生の景色であり、すべてが恵みであったのです。ただ神を賛美するのみです。

更に神学校での奉仕は、驚くほど魅力的な働きでした。それは、福音に生きる主の民を通して、全てが神のなされる宣教の業だと知る奉仕だったからです。「主は私に色々な景色を見せて下さった」といえます。その景色は、「人とはその置かれた場所によって見える景色が違う」のです。そしてその全てが主の御配剤の中にあったということです。

私は、これらの景色を楽しみ、また自分に与えられた境遇をも主が与えて下さった人生である、という喜びと感謝を味わったのです。このように言えるのは、「真理のみことばへの不動の信頼」と「聖書信仰に立つ神学的枠組みをもつ」ことの大切さを学生たち、先生方とこの神学校で再確認できたからです。ここで私は、「主がみ言葉で証しされているところに聞き、それをどこまでも、あらゆる場面で基盤(であり前提)として生きる以外に確かなものはない」このことを神学校で私は、改めて教えられたのです。信仰は、人の決意や熱心さなどによるのでも、個人の人間性によるのではなく、神からの賜物だということの再認識でした。

私にとっては、これらの確認をさせて頂く神学校での奉仕でした。私が一番大きな憐れみを頂いていたのかもしれません。それ故に、この働きを与えて下さった主に感謝し、それを支えて下さった多くの主にある神の民(同労者)に感謝します。

最後に、主にあって私を送り出してくれた金沢聖書バプテスト教会と妻に感謝して最後の便りとさせて頂きます。この度、日本バプテスト聖書神学校を卒業することが出来ました幸いを、心より主に感謝申し上げます。また、この学びの場をお与え下さった神学校の諸先生方、及び、祈り支え続けて下さった諸教会の兄弟姉妹方に、心より感謝を申し上げます。本当にありがとうございました。

修了生の証

愛する主に心から感謝して

修了生 金原 史佳ふみか

ワーカーズ2年課程・清水BBC

主のすばらしい御名を心から賛美いたします。入学式の翌朝、カーテンを開けてびっくりしました。燃えてしまうのではないかと思うくらい真っ赤な朝焼けが辺りを照らしていて、この世界を造られた神様を恐れました。翌日、齋藤先生から「『みことばが与えられた』と言うのはどう思いますか?すでに聖書六十六巻は与えられています。」と教えていただき、はっとしました。朝焼けもそうですが、私はこれまでどれだけ神様のくださる恵みを見逃し、みことばを聞き逃してきたのだろうと思いました。この二年間は、神様のくださる驚くばかりの恵みに気付かされ、朽ちることのないみことばに目が開かれ、心探られ、励まされ、力をいただき、生きて働かれる神様を知る本当に幸いな期間でした。言い尽くせない主への感謝を覚えつつ、ここでは特に三つのことを主に感謝し、お証とさせていただきます。

「主がお入用なのです。」(ルカ19:31)

まず、変わることのない主の召しに感謝いたします。大学生の時、小さな子ろばを用いると言ってくださる主に、看護師として、伝道者として、お仕えしていきたいと導かれました。それから神様は、看護師として四年間の経験をくださり、神学校で二年間の学びと訓練を与えてくださいました。この二年間、自分の弱さをこれでもかと示される中で、このような小さな私を主が用いてくださるということが大きな励ましでした。そして、四月から教会スタッフと地域の看護師としての働きが始まりました。今日も主が私を用いてくださるということが力となっています。ここまでの主のお導きを感謝いたします。

「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」(詩篇23:1)

次に、私は弱い羊ですが、主が私の羊飼いであることを感謝いたします。入学前、修了後は神の武具をたくさん身につけて強く雄々しく働きに出るのを想像していました。そのような側面もありましたが、どちらかと言えば、剣を奪われ、鎧をはぎ取られ、弱さが突きつけられました。私は神様の前にどうしようもない罪人なのだと何度も示され、その度に、このような私のためにいのちを投げ出してくださったイエス様の十字架の愛に深く感謝し、悔い改めへと導かれました。自分の弱さを知るとき、主だけが輝いていました。今日も大牧者であられる主が私とともにいてくださることを感謝いたします。

「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」(ガラテヤ2:20)

そして、私のうちにキリストがおられることを感謝いたします。ギリシャ語の課題に取り組んでいる時、「キリストが私『のうちに』生きておられる」が、前置詞『εν』であると気が付きました。キリストが私のど真ん中におられる、キリストと一つにされている、だからもはや私が生きているのではない、私の人生を歩まなくていいのだと分かり、胸が熱くなりました。キリストとともに十字架につけられ、自分にはキリストのいのち以外は何も残っていないという栄光の特権にあずかっていることを感謝いたします。 最後に、学ぶ楽しさと献身者としての生き方を教えてくださった神学校の先生方に、多くの祈りと励ましをくださった諸教会の皆様に、十二弟子のように学びと訓練と寝食を共にさせていただいた神学生の皆様に、生活を支えてくれたノンクリスチャンの家族に、祈りの内に送り出してくださった清水聖書バプテスト教会の皆様に、主にあって感謝いたします。皆様に主の恵みがともにありますように。愛する主に心から感謝しつつ、すべての栄光をお返しいたします。

新入生の証

何人かでも救うために

入学生 奥村 夏葉なつは

ワーカーズ2年課程・清水BBC

このように、神様のお導きと皆様の祈りに支えられ、神学校への入学が許されたことを心から神様に感謝いたします。今回は、私の救いと献身について証させていただきます。

私は、クリスチャンホームに生まれ、幼い頃から聖書の話に親しみ、日曜日に教会へ行くことは当たり前の生活を送っていました。イエス様の十字架や復活についても信じていましたが、自分の罪については意識が低く、自分の罪についてはっきりと示されたのは、高校1年生の春でした。ルカ15:4−7より、羊の姿から罪人の姿を示され、救いへと導いてくださる神様が必要であるということと、神様は罪の世界で彷徨う私を探して救うために、イエス様をこの世界へ送ってくださり、イエス様を通して救いを用意してくださったことを、これまで以上に自分のこととして理解しました。また、ヨハネ15:5の御言葉より、イエス様にとどまり続けることを教えられた私は、自分の弱さや罪ある姿をよりはっきりと自覚し、神様はそんな私の全生涯を導き、愛してくださるという恵みを知る中で、信仰の確信へと導かれ、バプテスマを受ける恵みに与りました。

それからも、日曜学校や礼拝で聖書のメッセージをいただき、私が最初に献身の思いへと導かれたのは大学3年生の年でした。特に時間において自分の思いを第一に過ごしていた私に、神様はマタイ6:33の御言葉を通して罪を示し、悔い改める機会をくださり、今まで自分のために使っていた時間を、日々の生活の中での祈りやデボーションに使い、参加できる教会の行事には全て参加し、神様との時間を第一とする生き方へ導いてくださいました。

また、神様は、私自身に与えられている賜物が分からず、すぐに他人と比較して、自分には差し出せるものが何もないと思ってしまっていた私の気持ちを「秀でるものは何も持っていないけれど、せめて私の全てを用いてください」という心へ変えてくださり、献身の思いを与えてくださいました。

献身の思いを持ちながら、看護学生時代には働き方を考える中でマルコ2:17より、訪問看護師としての道が示されたり、社会人になってからはイザヤ55:5、12ー13より、今与えられている環境の中で、神様の力をいただいて、積極的に神様を喜んで証するように導かれていきました。神様からの導きを日々祈る中で、2024年6月の祈祷会で開かれた1コリント9:22のパウロの姿を通して、主のためなら、何人かでも救うためなら何にでもなりたいという思いが与えられ、デボーションの中で与えられた2テモテ4:2、5より、福音宣教のために私の生涯をお捧げする決心へと導かれました。

これからの神学校での学びと訓練を通して、主の栄光を現す通り良き管となれますよう、お祈りに覚えていただけますと幸いです。

新任教師自己紹介

20年目の再入学

浜田 けん 清水BBC牧師

担当科目・組織神学1、キリスト教概説

自らの乏しさを痛感しつつも、「大牧者なる主が一切の必要を満たしてくださる」という恵みに身を委ねるように促されて、神学校の門を叩き、今年でちょうど20年になりました。この節目の年に、もう一度神学校に入学する思いで、教師としての働きを担わせていただけることを主に感謝しています。

神学校を卒業してから、伝道と牧会の現場で過ごしてきた日々は、かつて教えていただいた通り、常に主が傍におられ、御栄えを現してくださる幸いを感謝する日々でした。一方、御前に静まって神学に取り組むことができていないという課題を常に痛感させられてきました。この度、神学校において担当する科目をいただき、いま一度、御前に静まって学ぶ機会を主が用意してくださったのではないか、という思いの中にいます。

『天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います』(マタイ) 備えられた機会に臨む中で、すべてにまさって価値のある「福音の豊かさ」や「信仰に生きる喜び」に思いを向けていくことができればと願っています。学生時代にも印象深く、思い出深い授業であった「キリスト教概説」と「組織神学1」を担当させていただけることも感謝なことです。

「キリスト教概説」は、キリスト教信仰の精髄である教理や周辺課題に目を向けつつ、キリスト者としての世界観を構築し、神の視点(聖書の視点)で物事を捉え、生き、証しすることを考えるクラスです。「組織神学1」では、「啓示論」や「神論」に取り組みます。神とその言葉を学ぶことが、キリスト者としての生き方や祈りを形づくり、宣教に広がりと深みを与え、主の教会を建てあげていくことに繋がっていく、その期待と求めをもって、主が神学校に送ってくださる兄姉と学びに臨むことができたらと願っています。

現在、私は家庭においても「信仰の継承」という使命と向き合わされています。 限られた時間の中で、限りなき主の愛と真実を分かち合うということは、幸いなチャレンジであり、素晴らしい恵みの経験であると認識しています。私自身も学びつつの取り組みですが、主が上よりの力で支えてくださり、学生の皆様とご一緒に、主とその計画に目を向けていくことができるように、また主の視点で目の前の課題を考えることができるように、お祈りに覚えていただけますと幸甚に存じます。

「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています」コロサイ人への手紙2章3節

新任教師自己紹介

みことばの豊かさを正しく汲む手がかりを

中川 克巳かつみ 足利BBC牧師

担当科目・キリスト教福祉概論

この度、新任教師としてお仕えさせて頂くこととなりました。

正直教会の働きにおいてもまだまだ未熟ですし、私自身がまだまだ教えられなければならない者であることを痛感しております。そのような私が教師としてのお話を受けさせて頂いたのは、私自身が現場に出てから学びの大切さ、足らなさを痛感したからです。

私自身は、宣教師の教会で教理的説教を聞いて信仰の成長に導かれた経験もあり、教理についてはよく知っていたつもりでした。神学校でもその知識に補強するような意識で学んでおり、あとは実践が重要だと思っておりました。ところが現場に出てわかったのは、自分の聖書理解があまりにも辞書的、あるいは自分の経験に偏ったものであって、聖書本来のメッセージを理解するものではなかったということです。そのために自分とは異なる背景を持つ方、異なる強さ弱さを持つ方に対して、適切に御言葉をお伝えできない。自分自身が理解していない。そのような自分に気づかされて愕然としました。様々な背景を持つ方に、様々な切り口か御言葉を説き明かすには、聖書の背景や文脈をよく知っていなければなできない。そのことに気づかされました。文脈や文化背景の重要性は、神学校で充分教えて頂いていたのですが、自分の視点が狭く、高慢であったために正しく受け止められていなかったのだと思います。

そこで自分が語りたいメッセージではなく、聖書が本来持っているメッセージは何だろうか。そのような当たり前の事、またご指導を頂いた先生方にも散々教えて頂いていたことを、改めて学び直し、取り組む毎日でした。その積み重ねをしていく内に、聖書がどの時代のどの文化の中にいる、どのような背景の人たちにも必要なメッセージを持っていることが少しずつ、改めてわかってきたように思います。その経験が足利教会に導かれてから本当に支えになりました。その地域、その教会独自の良さや問題もありますが、その中でどのように御言葉を受け止めて行くべきか。まだまだ不充分ではありますが、その視点の大切さを実感しております。

そのような中で、神学校教師のお話も頂きました。まだまだ、自分自身が学んで行かなければなりませんし、実践していかなければなりません。けれども自分自身が教えられたことが少しでも今後の献身者の役に立つことができたら、主のお役に立てるのではないか。そのような思いが与えられました。学生たちに教えるよりも、まず自分自身が学び直し、整理しなければならないと願っております。その中でますます、神への恐れを失い、健全な教えが伝わりにくくなるように見えるこの時代にあって、献身者が少しでも健全な教えに立ち、御言葉に支えられ、強められて働くことができるように、少しでも役に立つ奉仕が出来たらと願っております。是非、教師としての成長のため、また足利教会のためにもお祈りください。

神学生紹介

池側いけがわ 真紀まき

4年(9月入学)

出身・茨木BBC

奉仕・稲毛BBC

渡邊わたなべ 剛志つよし

3年(9月入学)

出身・船橋BBC

奉仕・船橋BBC

岡戸おかど 恵里也えりや

3年

出身・船橋BBC

奉仕・船橋BBC

三浦みうら 基宣もとのぶ

3年

出身・高槻BBC

奉仕・高槻BBC

中村なかむら みどり

2年

出身・熊谷BBC

奉仕・熊谷BBC

中山なかやま 福音ふくね

2年

出身・清水BBC

奉仕・清水BBC

Ando

安藤あんどう のゆり

2年(ワーカーズ)

出身・船橋BBC

奉仕・船橋BBC

奥村おくむら 夏葉なつは

1年(ワーカーズ)

出身・清水BBC

奉仕・清水BBC

編集後記

編集者 三谷 浩司

初の4月入学生の修了式、ジュニアキャンプを挟んで、その10日後には入学式と過去に神学校が経験したことのないような慌ただしさの中で、神学校長も斎藤先生から加治佐先生にバトンタッチされました。今年も主が恵みの春風を送ってくださり、フレッシュな新入生と新校長を迎えることができたことを感謝すると共に、さらなるフェローシップ諸教会の熱い祈りと支援の必要を覚えさせられています。

行事予定

3月31日(月)・第71回入学式

4月22日(火)〜 5月2日(金)・ オープンキャンパス (授業見学可)

5月20日(火)〜 25(日)・伝道実習 (若葉BBCにて)

7月11日(金)・第67回卒業式(小諸市市民交流センターにて)