校長の机から
健全な教えを守り伝えたい

校長 加治佐 清也
この4月から神学校校長の任を担うこととなりました。よろしくお願いいたします。これまでの経緯と今の思いを記したいと思います。
昨年の7月、校長推薦委員会よりお電話がありました。アンケートの結果、推薦候補の一人となったとのことでした。驚きで、声が出ませんでした。私の名前が挙がることを、全く想定していませんでした。お話を伺いながら、校長になるなど全く考えられないと思いました。
しかしながら、もう一つの思いが心から離れませんでした。神様のみこころなら拒むことはできない、という思いでした。そういう経験がこれまでもありました。献身の時には、就職が決まった直後から、ローマ書10:14のみことば「宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか」が日夜心に迫りました。モーセのように、いろいろな理由を挙げて神様に断りました。私は口下手です、私よりもあの兄弟のほうがお勧めです、と神様に何度も申し上げました。しかし主のみこころに抗うことはできず、最後は白旗をあげるように、みこころを受け入れました。
「自分の思いとは違うところに神様のみこころがある。」そういう経験を重ねてきましたので、今回もみこころかどうか確かめなければならないと思いました。推薦委員会から2週間、祈りの時が与えられたので、この間に私にはっきりわかるように示してください、と神様に祈りました。するとその2週間に幾人かとの交わりが与えられました。いずれも校長職を後押しするものでした。その間に起こった諸々の出来事も同様でした。それでも何度も「無理です」と神様にお断りしました。とりわけ自分には校長を担う能力はないとお伝えしました。しかしその時、神様に言われたような気がしました。「あなたは、能力がないからできないという。では能力があるから上越教会の牧師をしているのか、神学校の教師をしているのか。」と。言われてみればそうではないのです。両方とも、私にはそんな力はありません。神様の召しがあり、恵みによって支えられているからこそ、働きをさせていただいているだけなのです。そのことに気づかされました。
そうであれば、確かに私には校長職を担う能力などないけれども、神様のみこころであるなら、神様が支えてくださるし、必要な力や知恵を賜物として与えてくださる。またこの2週間、神様は確かにこれがみこころであることを示してくださった。そうであれば、これを拒むことはできない。そういう気持ちに至り、推薦委員会にお返事しました。その際「他の候補者の方も推薦を受けるのであれば、推薦委員会にお任せします」とお伝えしましが、その方はすでにご辞退されたとのことでした。このように主が状況も開かれたことを受けて、本当にみこころなのだと受け入れ、推薦を受諾しました。
昨年の今頃は、1年後にまさかこのような状況になっているとは、夢にも思っていませんでした。しかし自分で開いた道ではなく、神様が導かれた道であることは確かです。そこに私の安心はあります。このつとめを神様からいただいたものとして受け止め、神様のみこころを求めながら、責任を果たしていきたいと思います。
JBBFは聖書を本当に大切にする群れだと思います。それゆえこの群れは神様に愛されていると思います。その群れの神学校をお預かりするのは、この身には過ぎた光栄です。歴代の校長先生が育んできたよき流れを引き継ぎつつ、変えるべきは変え、健全な神学校教育を営んでいきたいと思います。神様の支えに加えて、信頼できる教師の先生方や、祈り応援してくださる仲間が与えられていることを、とても心強く感じています。皆さんとともに協力して、神学校の働きに取り組んでいきたいと思います。
最後に私が神学校で大切にしていきたいことを申し上げます。それは「健全な教え」です。第2テモテ1:13ー14「あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛のうちに、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい。自分に委ねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって守りなさい。」聖書に基づいた健全な教え、先輩方が守り通してきた健全な教理を守っていく。不健全な教えが蔓延している今の時代にあって、健全な聖書観、神観、人間観、男女観、家族観、教会観、終末観などを、教会の指導者となる献身者たちにしっかり教えることは、神学校の大切なつとめです。また健全な教理は健全な道徳倫理の土台でもあります。不健全な教理は不道徳を生みます。教理は実践と分かち難く結びついています。
ですから、様々な知識を身に着けることが大切です。パウロも「あなたがたが、あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころについての知識に満たされますように」(コロサイ1:9)と祈りました。「神のみこころ」とは、神の教え全体のことです。この知識に満たされることをパウロは祈りました。神学生が、神の教え全体の知識に満たされて遣わされるように、導いていきたいと思います。確かに知識は人を高ぶらせる危険がありますが(1コリント8:1−2)、真の知識や学びは、人を敬虔に、謙遜にするものです。「神に選ばれた人々が…敬虔にふさわしい、真理の知識を得る」(テトス1:1)ことこそ、神のみこころです。
私が住む上越は、お米の産地です。秋には金色の稲穂が風に波打つ美しい光景が広がります。たわわに実った米粒の重みで稲穂はこうべを垂れます。「実るほどこうべを垂れる稲穂かな」。聖書の知識をたわわに身につければつけるほど、人は敬虔に謙遜になり、神と人に仕えるようになるのだと思います。そしてその姿はとても美しいのです。そのような献身者を送り出す神学校でありたいと思います。
この群れに、主が多くの献身者を興してくださり、神学校で学び、遣わされ、この群れがますます祝されることを願います。今後ともお祈りをよろしくお願いいたします。